2014年08月07日

まずは自分の努力

また明け方、分かれた友人のことについて
考えてしまった。

思い出すは、思い出す・・ときどき・・。

あったこととか・・。

まあ、致し方ないなあ。

しばらくはこうだろう。

依存についての本を読んでいると
ああ、友人も私も互いに依存しあっていたのが
わかる。

そうだったんだあ。

じゃあ、私は依存からは脱したいと
思っているから、別れて正解だったなあ。

物事の本質は、その人が気づいていない
ところにあったりする。

やっているよ〜と言いながら
焦ってるよ〜と言う。

これは、正解な方向へ行ってない証拠。

だが、人がいくら言っても
聞き入れない。

これでは変わりようがない。

聞いてない、
と言っても、何を聞いてないのか
分からないと言う。

一つ一つ身についていない
というのが聞いてないという証こ。

だいたい反発ばかりしていたのでは
聞く耳も持てないだろう。

そこのところの心から変えていかないと。

そういう話になってくるから
根本から話さなくはならなくなる。

しかし本人に聞く気がない。

これでは堂々巡りだ。

なのに聞けばなんとかなると
思っている。

だから問題なのだ。

そうやって周りの人みんなに
そういう態度なのではないか?

だからそんなに沢山の友人が
いるのに一つも解決してないのが
その証拠ではないか?

私は普段、友人と会うこともなく
人に聞くことも、ほとんど無いというのに・・。

しかも、その友人を失ったら
もう近場で会う人は一人もいない。

それでも、こちらの道を選んだ。

それが得策だと思った。

石井裕之さんのCDの中で
「自分にできることをして、
自分にできないことはしない」
という言葉が出てくる。

今回のことも、私のできる限界だと
思った。

だから手を引いた。

友人は困っていたけど
この段になって焦っていると言うのは
今まで私と付き合っている中で
何を学びとしたのか?
たんなるお茶飲み友達としか
思ってなかったのだ。

友人にはことあるごとに
有益な本の紹介、参考になる話
ことあるごとにしてきたというのに。

打てど響かぬ太鼓をたたいていた
ようだったと感じた。

話を聞くということよりも
その裏側にある、その話をする
人の気持ちが分かっていないことが
原因。

相手がどんな気持ちで話しているのかが
分かれば、一つも身につかないいと
いうことはない。

また相手を本当には見ていない。

部屋に入り、一輪の花に気づくほどにも
人を見ていない。

これが心の病の現状であり、
依存の実態です。

今まで話してきて(心の病の人に)
何か身について変わったという人は
一人もいない。

そしてこちらのエネルギーを
奪われるだけ奪われる。

私はまた補給するが、
1時間話しただけで
ソファーに倒れ込むことも
何度もあった。

今は大丈夫だが。

そんなこんなで自分の貯蓄は
ほとんど無い状態。

しかしまた補給していくが。

できるなら、元気な健康な人と
付き合いたいなあ。

得ることが多い。

気づきが多い。

人から奪おうとしている人と
人に与えようとしている人とでは
マイナスとプラスほどに
作用、反作用だ。

奪おうとしている人と
付き合うと、こちらは減るばかりだ。

しかも奪っておいて、
自分の実になっていないのだから
まるで穴の空いたバケツ状態だ。

まずその穴を埋めることを
自分で努力してやってからにして
欲しい。

こちらに聞くのは。

それくらいやらないと
自分の足でなど到底立てない。

人に頼る前に、自分の足りないところ
欠陥を見つめて、自分と対峙して
本気で治療してほしい。

でないと側にいる人は、疲弊するばかりで
相手の実にもなってなかったとなると
愕然とするばかりだ。

でも本人はどうか?
というと自分がそんな周りからみて
そんな存在だという事実を知らない。

そのことも問題だ。

つまり自分が悪いと思っていない。

卑下をする割に悪いと思っていない。

自分は相手から奪っておいて
バケツの穴は空いてるから
そこから漏れていることに
気づかなければならない。

実は世の中にはこういう人が
今蔓延している。

まずは自らが努力してほしい。

こう切に願う。

2014年08月06日

痛みに変えて

さきほどの記事に加えて、さらに
自分が決めたことを書きます。

もう、いらないアドバイスはしません。

大切な友人から教わったことです。

相手が悪いなら、アドバイスはするのは
良くない。

別れた友人が悪いとは言わないですが、
(気づかなかった私も悪いし
友人も気づけなかったのでしょう、
自分の行為に)、
繰り返しのアドバイスが実は何の意味にも
なっていなかったと知るのに、私は
いったいどれだけの無駄な時間を費やしただろうか?

そのことのほうがショックです。どんっ(衝撃)

今心の整理をしているところです。

アドバイスは友人にとっては不要なばかりか
「よけいなお世話」だったのです。

なら「そんなアドバイスは私にはいりません」
こうはっきり目の前で言われたなら、
私も理解できるが、そうでないなら
自分が良いことだと思っている限りは
続けてしまいます。
それが業(ごう)というものです。

相手も、今回わかったと思います。

私がはっきり気づいたので
「私のアドバイスはいらないということね?」
と突きつけたら、「そうだ」と言いました。

で、インターネットでも、その後調べました。

「アドバイスは害になる」とありました。

同じ船に乗る者同志のアドバイスは必要だし
むしろ同じ船に乗っているのにアドバイスを
しないというのは罪だと。

だけど、沈没しかかっている船を同じ
船に乗っている者同志協力して水を
組みだすのは分かる、それを通りかかりの
別の船から眺めながらアドバイスをする
人がいる、とそれは害以外の何ものでもないと。

つまり「的外れ」なのだ。

私の友人にしたアドバイスは、
なんとか良い方向にいってもらいたいの
思いからしたものでした。

が、例えるならこんなアドバイスもバカげている。

海鮮丼を食べている人に「刺身もおいしいですよ」
と言うのはバカげている。
刺身丼なのは明白なのだから。

その意味で、医療専門家の人に、
自分の知っている医療知識をひけらかしたりしたら
攻撃の的になるだけ。

そういった空気の読めなささ、
というのも、私の中にも往々にしてあったの
だろうな、と感じ始めました。

だから、今回のことは勉強になり、
良かったのです。

反省になりました。

一人になることへの不安や孤独もあったけれど
近場に友人のいなくなる不安もあったけど、
そんなことよりも、自分自身の今の気持ちの
ほうが大事だと思ったから、自分の意志を
尊重しました。

数々の気づきを得た今、やって良かった行為だと
思っています。

やったことに一つの後悔もなく、
さらには前に進む原動力ともなるものならば
例え冷たく切り落とされたと相手が思ったとしても
誰かに冷たく非難されたとしても
やって良かったことになるように思います。

人に執着するのではなく、自分の
目的、目標、もっと高次な自分にとって
本当に大切なものに目を向けたなら
気持ちも明確に決まってくると感じます。

目的、目標に向かったなら、おのずと
それを手に入れるために捨てねばならないものが
出てきます。

これも欲しいがあれも欲しい、
こんなことでは目標は手に入らないし、
そんな思いなら、本心で、その目標を
獲りにいってないでしょう。

また、制限が厳しくなればなるほど
絞られてくることになるので、
「それしかない!」となります。

まさに、排水の陣です。

しかし、他に選ぶものが無ければ
それしか目に入らなければ
必然的にそれに向かいます。

これは願ったり叶ったりの
法則なのです。

もともと、不幸になるための法則なら
残っていないはずです。

幸せになるための、勝利を得る法則だった
からこそ、戦国武将が編み出し必勝したから
こそ後世にまで残った法則なのでしょう。

起業家の中でも歴史に強い人は
企業でも強いと言われています。

今の子供は歴代の偉人の書物を読まないと言います。

誰もがやって失敗したことは
新しいことなのです。

残っているのは古い歴史の中で
これぞ!というものが残っているのです。

だから、自分がいかに新しいものを
発明したかのように、やっているけれど
なぜそれが失敗に終わるか。

法則に残らない失敗したものだからです。

すでに失敗済み、経験済のことを
わざわざやって失敗しているのです。

それは何故か?過去の歴史に学ばないからです。

より良いものなら残っているはずです。
何かの形で。
過去の素晴らしい業績に、
学ばないから失敗するのです。
過去、血のにじむような努力をして
掴んだ法則を書籍にまで落としてくれている
というのに。
それは未来の私たちにもわかるように
伝わるようにと思ういわば、先祖からの
親心からではないでしょうか。

それを、私には私の考えがあるから
とか言いながら、言っているのは
愚痴や文句ばかり、それはできない、
とえり好みをする。
そういえば、次の新しい何か方策を教えてもらえ
自分は楽して得られるとでも思っているのか?

しかもどれを言ったとて実行しない
人に、いつまでも、あらそうじゃあこれは、
なんて提供する、そんなお人よしは
この世には家族以外いない!

これらは、目上の人、経験者を尊ばない
今の若い世代の人の意識にも反映して
きているのではないかと私的には感じます。

朝から多く言ってしまいました。

自分の気づきに加え、これから反省を生かし、
対策としたいと切に思う次第です。

痛みに変えて。

結果は次の結果を引き出す

友人との別れである決意をした。

ただ、その決意は自分にとっては
楽しいことではないので、できるかどうか?
まだ不安だ。

厳しいところも通らねばならないのも
分かっている。

逃げていたのでは、よけいに苦しい結果になるのも・・。

今まで経験済だ。

だが、人にはどうしても離れきれない業(ごう)というものがあり、
それは、なんともしがたいものがある。

過去からの業を受けて持っていると
言われている。

それの全てに、自分の責任があり、
今受けている結果も、すべては過去の自分が
蒔いてきた種が今結果となって現れているのだと。

自分の行う行為(身体、口、意(心))この
3つで行う行為により、すべての運命が決まると。

結果を導きだすのはほかでもない
自分自身の行為によるものなのだと。

それを、●●さんがこう言ったから私がこうなったのよ!
とか、●●のせいで!とか恨んだり妬んだりして
いたら、その種まきもかえってくるのは
すべて自分に、です。

だから反省すべき点は全て自分にあるのです。

ただ、近年、心の病の人が特に陥りやすい
「自責」とか「他責」
というのとはこれは違います。

「あきらかにみる」と言います。

色眼鏡や、歪んだ感情で物事をとらえるのではなく、
ありのまま、そのままをみるのです。

ああ、●●だなあ、と。

人のせいにしている自分がいたら、
ああ、人のせいにする自分だなあ、と
それもそのままみていく。

そのうえで反省できれば、より素晴らしいですね。

これが、私の学んでいる「仏教」の考え方
また、お釈迦様の説かれたことです。

蒔いた種は必ず生える、
蒔かない種は絶対に生えない。

これが因果の道理(いんがのどうり)です。

自分に自覚が有る無しは関係が無いのです。

心で知らないうちに蒔いた種も
必ずいつか芽が出ます。

ひまわりの種を蒔いたら、
ひまわりの花が咲くように。

ダリアの種を蒔いたら
ダリアの花が咲くように。

「人は知らねど種は正直」

結果を見れば、例え暗闇で蒔いた種でも
あきらかに何の種を蒔いたか?
が分かるのです。

しかし、もう一度言いますが、
そういった自分を責めても何の解決にもなりません。

その結果を、あきらかに見て
また反省をして、次につなげる。

結果は次の結果を生むので、
そこに反省が無いと、同じことの
繰り返しか、悪いようにとらえると
雪だるま式にふくらみかねません。

更なる悪い結果を引き起こしたくなければ
自分の今受けている結果は
全て自分が引き起こしたものなのだなと
受け止め、反省して、前に進みたいですね。

私も、心がけていきたいです。

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