2014年08月06日

痛みに変えて

さきほどの記事に加えて、さらに
自分が決めたことを書きます。

もう、いらないアドバイスはしません。

大切な友人から教わったことです。

相手が悪いなら、アドバイスはするのは
良くない。

別れた友人が悪いとは言わないですが、
(気づかなかった私も悪いし
友人も気づけなかったのでしょう、
自分の行為に)、
繰り返しのアドバイスが実は何の意味にも
なっていなかったと知るのに、私は
いったいどれだけの無駄な時間を費やしただろうか?

そのことのほうがショックです。どんっ(衝撃)

今心の整理をしているところです。

アドバイスは友人にとっては不要なばかりか
「よけいなお世話」だったのです。

なら「そんなアドバイスは私にはいりません」
こうはっきり目の前で言われたなら、
私も理解できるが、そうでないなら
自分が良いことだと思っている限りは
続けてしまいます。
それが業(ごう)というものです。

相手も、今回わかったと思います。

私がはっきり気づいたので
「私のアドバイスはいらないということね?」
と突きつけたら、「そうだ」と言いました。

で、インターネットでも、その後調べました。

「アドバイスは害になる」とありました。

同じ船に乗る者同志のアドバイスは必要だし
むしろ同じ船に乗っているのにアドバイスを
しないというのは罪だと。

だけど、沈没しかかっている船を同じ
船に乗っている者同志協力して水を
組みだすのは分かる、それを通りかかりの
別の船から眺めながらアドバイスをする
人がいる、とそれは害以外の何ものでもないと。

つまり「的外れ」なのだ。

私の友人にしたアドバイスは、
なんとか良い方向にいってもらいたいの
思いからしたものでした。

が、例えるならこんなアドバイスもバカげている。

海鮮丼を食べている人に「刺身もおいしいですよ」
と言うのはバカげている。
刺身丼なのは明白なのだから。

その意味で、医療専門家の人に、
自分の知っている医療知識をひけらかしたりしたら
攻撃の的になるだけ。

そういった空気の読めなささ、
というのも、私の中にも往々にしてあったの
だろうな、と感じ始めました。

だから、今回のことは勉強になり、
良かったのです。

反省になりました。

一人になることへの不安や孤独もあったけれど
近場に友人のいなくなる不安もあったけど、
そんなことよりも、自分自身の今の気持ちの
ほうが大事だと思ったから、自分の意志を
尊重しました。

数々の気づきを得た今、やって良かった行為だと
思っています。

やったことに一つの後悔もなく、
さらには前に進む原動力ともなるものならば
例え冷たく切り落とされたと相手が思ったとしても
誰かに冷たく非難されたとしても
やって良かったことになるように思います。

人に執着するのではなく、自分の
目的、目標、もっと高次な自分にとって
本当に大切なものに目を向けたなら
気持ちも明確に決まってくると感じます。

目的、目標に向かったなら、おのずと
それを手に入れるために捨てねばならないものが
出てきます。

これも欲しいがあれも欲しい、
こんなことでは目標は手に入らないし、
そんな思いなら、本心で、その目標を
獲りにいってないでしょう。

また、制限が厳しくなればなるほど
絞られてくることになるので、
「それしかない!」となります。

まさに、排水の陣です。

しかし、他に選ぶものが無ければ
それしか目に入らなければ
必然的にそれに向かいます。

これは願ったり叶ったりの
法則なのです。

もともと、不幸になるための法則なら
残っていないはずです。

幸せになるための、勝利を得る法則だった
からこそ、戦国武将が編み出し必勝したから
こそ後世にまで残った法則なのでしょう。

起業家の中でも歴史に強い人は
企業でも強いと言われています。

今の子供は歴代の偉人の書物を読まないと言います。

誰もがやって失敗したことは
新しいことなのです。

残っているのは古い歴史の中で
これぞ!というものが残っているのです。

だから、自分がいかに新しいものを
発明したかのように、やっているけれど
なぜそれが失敗に終わるか。

法則に残らない失敗したものだからです。

すでに失敗済み、経験済のことを
わざわざやって失敗しているのです。

それは何故か?過去の歴史に学ばないからです。

より良いものなら残っているはずです。
何かの形で。
過去の素晴らしい業績に、
学ばないから失敗するのです。
過去、血のにじむような努力をして
掴んだ法則を書籍にまで落としてくれている
というのに。
それは未来の私たちにもわかるように
伝わるようにと思ういわば、先祖からの
親心からではないでしょうか。

それを、私には私の考えがあるから
とか言いながら、言っているのは
愚痴や文句ばかり、それはできない、
とえり好みをする。
そういえば、次の新しい何か方策を教えてもらえ
自分は楽して得られるとでも思っているのか?

しかもどれを言ったとて実行しない
人に、いつまでも、あらそうじゃあこれは、
なんて提供する、そんなお人よしは
この世には家族以外いない!

これらは、目上の人、経験者を尊ばない
今の若い世代の人の意識にも反映して
きているのではないかと私的には感じます。

朝から多く言ってしまいました。

自分の気づきに加え、これから反省を生かし、
対策としたいと切に思う次第です。

痛みに変えて。

結果は次の結果を引き出す

友人との別れである決意をした。

ただ、その決意は自分にとっては
楽しいことではないので、できるかどうか?
まだ不安だ。

厳しいところも通らねばならないのも
分かっている。

逃げていたのでは、よけいに苦しい結果になるのも・・。

今まで経験済だ。

だが、人にはどうしても離れきれない業(ごう)というものがあり、
それは、なんともしがたいものがある。

過去からの業を受けて持っていると
言われている。

それの全てに、自分の責任があり、
今受けている結果も、すべては過去の自分が
蒔いてきた種が今結果となって現れているのだと。

自分の行う行為(身体、口、意(心))この
3つで行う行為により、すべての運命が決まると。

結果を導きだすのはほかでもない
自分自身の行為によるものなのだと。

それを、●●さんがこう言ったから私がこうなったのよ!
とか、●●のせいで!とか恨んだり妬んだりして
いたら、その種まきもかえってくるのは
すべて自分に、です。

だから反省すべき点は全て自分にあるのです。

ただ、近年、心の病の人が特に陥りやすい
「自責」とか「他責」
というのとはこれは違います。

「あきらかにみる」と言います。

色眼鏡や、歪んだ感情で物事をとらえるのではなく、
ありのまま、そのままをみるのです。

ああ、●●だなあ、と。

人のせいにしている自分がいたら、
ああ、人のせいにする自分だなあ、と
それもそのままみていく。

そのうえで反省できれば、より素晴らしいですね。

これが、私の学んでいる「仏教」の考え方
また、お釈迦様の説かれたことです。

蒔いた種は必ず生える、
蒔かない種は絶対に生えない。

これが因果の道理(いんがのどうり)です。

自分に自覚が有る無しは関係が無いのです。

心で知らないうちに蒔いた種も
必ずいつか芽が出ます。

ひまわりの種を蒔いたら、
ひまわりの花が咲くように。

ダリアの種を蒔いたら
ダリアの花が咲くように。

「人は知らねど種は正直」

結果を見れば、例え暗闇で蒔いた種でも
あきらかに何の種を蒔いたか?
が分かるのです。

しかし、もう一度言いますが、
そういった自分を責めても何の解決にもなりません。

その結果を、あきらかに見て
また反省をして、次につなげる。

結果は次の結果を生むので、
そこに反省が無いと、同じことの
繰り返しか、悪いようにとらえると
雪だるま式にふくらみかねません。

更なる悪い結果を引き起こしたくなければ
自分の今受けている結果は
全て自分が引き起こしたものなのだなと
受け止め、反省して、前に進みたいですね。

私も、心がけていきたいです。

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