2015年11月29日

自分を安易に傷つかせない受け止め方

幼いころ、母には一回教えてもらって
わからないと、二度と聞き直せない
思ったのは、二回目聞くと、怒られるから。

だから二回は二度と聞いたらいけないんだ
と思い、その後、誰からも二回聞くことはなかった。

だから、学校でも、ほかのことでも
二回聞くことはなかった。

二回聞いたらいけないと思いこんだので
わからなくても聞き直さないで、そのまま
つづけた。

だから必然的に理解していないまま
つづけるので、よく失敗ばかりして叱られた。

それは学校の勉強でも、仕事をしていても
その癖はしょうがいつきまとった。

いつからか、わからなければ聞き直しても
いいのではないか?とおもった瞬間がおとづれる。

それからは、聞き直せるようになったが
その癖が直るころは、30代も過ぎてからだった。

それまではぜったいに二回聞いてはならないと
思いこんでいいたし、一回で理解するものだ
と思いこんでいたから、一回で理解できないと
自分はバカだと思った。

しかもそれに「最低」がつく。

一回で理解できなければとにかくならないのだと
思い、できなければ「人間失格」とさえ思った。

父母も完璧主義の人で、口に出して言わなくても
子供に完璧を求めているのは手に取るように
わかったし、自分は利口でなんでもできなえれば
ならないんだと思いこんだ。

しかも一回で。

それが功を制している部分も逆にあるのか?
それが原因かどうかはわからないが、
一回目の話を聴くときは、人の何倍もの
感動、臨場感があるように感じる。

話を聴いただけなのに、現実にあった話かと
混同してしまうほどの話も中にはある。

人が死ぬ話など、自分も死ぬかのように感じるし、
人が苦しむのも、自分が同じように苦しいと感じる。

一度、母が、母の父が亡くなる様を
ありありと私に聴かせた、ということがあっが
(母の父は、当時、薪で炊く風呂だったが
酒に酔い、泥酔して、わからなくなり
薪でくべていて、その火が体に焼け付いて
体の半分以上が焼けて死んだ)
病院に運ばれたが、半分以上焼けると
皮膚呼吸ができなくなるためとか
死んでしまったのだ。

その話は、今でも目の前で祖父が焼け死ぬ姿が
思い出されて、いったい聴いた話だったか?
あるいは目の前で観たのか?わからなくなるほどだ。

だから、私は話を聴いただけで、
リアルに迫ってきて、まるで映画館で観る
劇場映画さながらなのだ。

恐ろしい話は、より恐ろしく感じるし、
面白い話は、より面白く感じる。

面白い話はいいが、恐ろしい話は
アニメだろうと、何回観ても、人が殺されるシーンなどは
観たくない、と目を覆いたくなる。
その場で人が実際に殺されている感覚になる。

と、話がそれたが、

父母は自分にたいしても完璧主義だった。

母は今でも自分が何かできなかったり
失敗すると「バカだ」という。

自分が失敗したときに「自分のことをバカ」で
片づけてしまう人って、かわいそう、て今では
思う。

バカだから本当に失敗するのだろうか?
バカだからできないのだろうか?

私はそうではないと思う。

それにいたるまでの努力が足りていなかったり
もともと不向きなことだったり、自分が不器用で
できなかったり、今はできないだけかもしれないし
もっと他の理由があると思う。

それを教えてあげたいけど、
失敗したときに「自分をバカ」と言う人に
たいしてどう言ってあげたらいいのか
いまだわからず、そのときは「また言ってる」
と思って黙って聴いている。

まあ、自分はわりに完璧主義から抜け出し
今は「失敗しても、またやればいい」と思えるから
自分は幸せだなと思う。

叩かれても、へこまされても、それでも
「踏まれても咲き誇れ野に咲く草花?」
のような気持ちでいられるから幸せだと思う。

叩かれても、へこまされても自分の人格までも
自分で侵害することないと思う。

実はそれが一番に害なんじゃないか?と
今では思える。

ある私の書き残したノートの中に
「自分を変えることはない、自分の言動、行動を
少しずつ修正していけばいいだけ」という
言葉を自分で書き写していて、そのとおりだなと
思い、入ってきた言葉だった。

誰かが言う言葉が、自分の人格を否定した
言い方なのか?それとも「言動だけを改めよ」
と言われているものなのか?は
相手の言い方を聴いていればわかると思う。

長い付き合いでもわかると思う。

また自分もそういった言い方を心がけたいと
思っている。

言い方はけっして相手の人格を否定したもの
であってはならないと思っている。

相手を傷つけたくなければ、そうしたらいいと思う。

また相手の言葉の中に、自分を故意に傷つけようと
している言葉でないことを確認すればいいと思う。

そうすれば自分は安易に傷つくことも無いかなと
思う。

相手から欲しい言葉を引き出す

私が、人を「多重人格」と思うのは、
そう見えるのは、人は場のシーンによって、
今ある問題により、人格が変わるように見えるところだ。

たとえば私が「相手を怒らせた場合」の
相手と、「相手を喜ばせた場合」の顔の表情
相手から出る言葉、しぐさ、はまるで違うものなのは
当然のことなのだろうが、私にはどうも
その違う場面の相手が、「別の人間」に見えて仕方がない。

「これが同じ人間?」て思う。

「とても同じ人間に見えないから、多重人格」
と思う。感じる。

すると、みんな「多重人格?」なのではないだろうか?

が、私の父母は、そんなことは無かった。

違うシーンの自分を見せる、ということは
ほとんどなく、いつも同じだったように思う。

だから「違う人格」が親には見えないから、
いつも同じだから、特に父はそう。

「怒ったことが一度も無い父」でした。

友人や、夫を観ていると「ガラッと変わる」ように
見える。

え?昨日私を誉めていた、この人が同じ人?
て思う。

で、誉めていることと、怒ることの間の
落差はなんなんだろう?と。

どうして、怒る人が誉めるのか?がわからない。

誉める人が怒るのか?がわからない。

それは、私の中でも、同じで、怒るときは怒るし
誉めるときは誉めるのだろうが、怒る人が誉めているのか?
誉める人が怒っているのか?
どっちなんだろう?

怒るとき、「じゃあ、あの誉めたのは無いんだ」て
思う。

「誉めるときはあまり、その人の怒っているシーンは思い出さない」

相手が怒るとき、誉めたことが帳消しになる、ておかしいんだろうか?

「怒られると、あの誉めたのは何だったのか?意味がわからなくなる」

あまりに怒られてばかりだと、「自分は価値が無い」「死んだほうがいい」
とすぐ頭が子供のころに繰り返し思い続けたそのモードに切り替わる。

子供のころの心の痛みだけは覚えているから、「怒られる」=「死ぬしかない」
となるのかもしれない。

「●●が悪い」「●●も悪い」「●●●●も悪い」立て続けだと
どれだけモチベーションアップの学びを身に着けていても
ひとたまりもない。

その中の一つかけらだけでも自分を救い出す言葉を
相手の言葉の中から見つけるのが上手になった。

主人の言葉で言うなら「さつきのために」とか
「病気が早く治ればいいなあ」とか。

その、怒っている相手の中の「一つ」「二つ」しかない
言葉を、よ〜くよ〜く聴くようになった。

それは、本当に自分にとって貴重な瞬間であり
その言葉の中に自分を救い出してくれる種が実はあるからだ。

私を叱咤する人の裏側の心は、まさに「叱咤激励」とも
言われるように「応援してくれているんだ」ととらえないと
やれなくなる。

それから、自分がほしい言葉を相手から引き出すことも
している。

それは、たとえば、主人があまり続けて叱咤するので
「じゃあ、こんな私には全く期待してないてこと?」
と聴いてみる。

すると「そんなことないよ。期待している部分もあるよ」
と言ってもらえる。

その言葉を待ってました!

という言葉をかけてもらえるような質問を
こちらが選んでかけるのだ。

すると「望んでいた言葉が返ってくる

それが、そのまま「カウンセリング効果」になる
というものだ。

だから相手にかけてもらいたい言葉は
こちらから仕向ける。

自分にカウンセリングをかけるつもりで
相手に望む言葉を言わせるのだ。

カウンセリングは自分でかけられると思っている。

現に昔の人は日常会話が「カウンセリング効果」を
すでに持っていた。

まだ、心の病とかあまり無い時代だ。

だから日常会話の中から自分にカウンセリングを
かけていくことは可能なのだ。

一度試しにやってみてください。

ではあ。

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